2014年1月17日金曜日

悪の問題に関する覚書

今年のはじめは映像スタッフと、メンバーひとりと、ささやかな新年会をひらいた。そのあと見たのが、
「ハンナ・アーレント」という映画。
ジョージ・オーウェルの「動物農場」(ちくま文庫)の解説において開高健が、文学において悪が、どのように (how)為されるかを描くことはよく行われているが、それが何故(why)為されたかを描いて成功した例は少ないという主旨のことを書いていたが、ハン ナ・アーレントの告発は、その何故行われたかについてのものであり、なおかつ、それが正しかったならば多くの人に等しく悪の可能性を示唆している点がひと の拒絶を促すように思える。

文学作品において、一部の寓話だけがこの悪の問題を提起することに成功して、ほかの文学においてそれが為されない理 由は、文学作品における個別の悪の理由が、その個別性に矮小化されて解釈される可能性を排除できないからである。逆に言えば寓話の限界と社会における文学 の限界をも示唆する。
アイヒマンの悪が、アイヒマンの固有性に収斂する―すなわち処刑によって感情を回復する―限り、凡庸な悪の問題は放置され忘却される。
小説で、何故悪が為されるかを描くのが難しいこと以上に、実際ハンナ・アーレントの告発はユダヤ人コミュニティを含む大勢の反発という困難を伴った。
アイヒマンを含む社会全体の問題を自らを含む社会全体の問題と考えることによって必然的に生ずる既存の社会への疑義 とそれに伴う感情的ゆさぶりへの反応であるように思う。個人の怒りというより社会性を持った怒りであり、現代の日本においてはよりこのような問題提起は難 しかろうと思う。

映画においてひとつ印象に残った点がある。
ユダヤ人のうち迫害を受けていない世代が成長して、より過激な処罰感情を持つようになっている、という描写である。このことはいつの時代も変わりがないと思えるがその理由とはなんなのかについては考察に値するだろうと思う。
当事者でない者の持つ犯罪者への処罰感情、ときには当事者に対して、より激しい罰を要求する部外者の存在はますます顕在化する方向に進んでいるのは危惧すべき事態だ。

2014年1月9日木曜日

音楽遍歴に関する私的覚書

G-ガルシア‐マルケス「百年の孤独」を読み終える。
めまいのするような内容だがこの物語は物語が物語られる過程で変容する、その、物語ることの本質
―風化と変容―そのものを感じる。
リチャード・アダムス「ウォーターシップダウンのうさぎたち」において語られる神話的世界が、終局、物語として語られるなかである種の神秘的伝説として変容した状態で語られるのを想起する。
 この本は11月に自分の企画「歴史の再帰性と対称性の破れ」で呼んだ幾何学模様のメンバーに勧められて読んだものだ。
 歴史の再帰性について、フラクタルを形作るものとしてこの本をすすめられて読んだところ、この本におけるエピソードの連なりによるフラクタルについて感応した部分は大きい。
 このホームページを作るにあたって、2011年の夏ころから一切見ることのなかったシベールの日曜日のライブ映像を見返し(いずれこれも何らかの形で公開したいと思っている)、過去がしっかりと現在の自分を示唆していることに驚いた。
「Gypsy house」とその時期に表現されていることは、2011年ころに追い求めていたであろうものが結実して出来上がったものであったのは間違いない。

対しては「Tsubouchi」において表現されているものは、このバンドを結成する以前の自分の非常に暴力的で反 抗的な面があらわれているように思えるので、過去と現在をかなり広いスパンで往復したような感覚を持っている。もちろん現在の状況がそうさせたので、制作 中は過去の感覚や出来事をひとつひとつ思い出すようなところがあった。
そのなかで印象的だったのは、(これはバンド結成以後のことだが)函館在住のあるラッパーの死を、あとから函館の友 人に聞いたことで、その本人とは面識がなかった(EPは持っている)けれど、ある点でとても偶然とは思えない符号があって、それ以後、言葉への取り組み方 が変わったというのがある。

 不条理な感覚 意識変性状態 メカニカルなものと装飾的なもの 
 
ある種の「ありえなさ」をはじめから志向していたことに気づいた。
ありえない状況が起こりうる、という感覚が状況を変えたいと願う人間にとっての希望となりうるという意味において、反抗的な人間はありえない出来事
をありえないと考えてはいけない。その意味で原点に還ってきた思いだ。

バンド再開にあたっては以下のような感覚で統合することが当面の目的だ

宙に浮かぶ 金属片にまとわりついたコンクリートの塊 その衝突
 横倒しのビル 水墨画
 幽玄 霧に浮かび上がる廃墟 長谷川等伯

2014年1月7日火曜日

保守とリベラルに関する覚書


2014年より、ここから発信します。

 マイケル・サンデル「公共哲学」を読んでいる。
「公共」の概念については2011年ころから取り組んでいた、日本の社会の崩壊、大衆による政治的オピニオンの形成への直観的な危機意識への問題の帰結ととらえている。

 自民党憲法改正草案などにみられる「公の秩序に反しない限り」などの文言にみられるような、権利を制限するような 領域での語られ方から、いわゆる(リベラル)から集中砲火されたことも記憶に新しいが、それがいかなる論理的道筋をたどって出現したかについてはあなどっ て考えてはいけないようである。
 その点でこの本の、アメリカで起こる政治における道徳の問題についてのレポートは日本における問題の理解へのある程度の手助けになる。

(自由)を戴きながら、その自由をどこまで解釈するのか、という点がアメリカ合衆国における保守-革新の区分けである。そして保守派はつねに、より(自由)なるものを志向し、その根拠には市民を形成するための中間的コミュニティの機能にある。

国家と個人のあいだに存在する中間的コミュニティの機能についてのアメリカの共和党的保守主義において、大きな政府 に反対する根拠に国家と個人の間にある中間的コミュニティの理想があり、対してリベラルが主張する社会福祉は中間的コミュニティの機能に対する疑いに由来 している。

はじめ政府に対抗する立場として登場したレーガンは、保守派のリバタリアン的要素と市民的要素の、なかでも後者によって、家族や近隣住民、信仰や愛国心といった価値観を喚起することで市民からの支持を得ることに成功していたとある。

" 個 人主義を重んじる保守派は、人間は他人に危害を加えないかぎり、自分のしたいようにする自由を持つべきだと思っている。彼らは「政府の国民への干渉をやめ させる」ことについて語る保守派だ。対照的に、コミュニティを重んじる保守派は、政府が道徳的・宗教的な価値観をはっきり表面すべきだと思っている。彼ら は、妊娠中絶の禁止、ポルノ規制、公立学校での礼拝の復活を望んでいる。前者が個人の自由の名のもとに志願兵制度を支持するのに対し、後者は市民道徳のか んようを願って徴兵制を支持している。前者が慈善の強制だとして社会保障制度に反対する一方、後者は保守的価値観を促進する社会保障制度には賛成する。 レーガンはこの二つの要素をともにうまく肯定し、どちらか一方を選ぶことは決してなかった。"

このような(政治的結果いかんに関わらず)懐の深い保守派に対して現代のリベラリズムには第二の声、つまりコミュニティ的要素が欠けているために、道徳観などの共同体的価値観についてのコミットに保守派の独占を許した。

” 自 由放任主義を信奉する保守派と同じく、リベラル派は、道徳や宗教の問題に政府は中立を守るべきだと思っている。善き生をめぐる特定のビジョンを法律で支持 するのではなく、個人がみずからの価値観を自由に選べるようにしておこうとするのだ。リベラル派の考えでは、政府のなすべきことは、国民の権利の擁護であ り、市民道徳の涵養ではない。政府は目的に中立の立場で権利の枠組みを提供すべきであり、市民はその枠組みに収まるものなら、何であれ自分がたまたま 持っている価値観を追及してよいのである。個人主義を信奉する保守派とリベラル派は、個人の権利を守る中立国家を志向している点で同じで あるが、相違は前者が私有財産権を強調し市場経済への束縛を無くすことを主張すること、他方、後者は真の自由への社会的、経済的前提条件を要求し、福祉、 雇用、住居、医療といったものに対する権利を、主張する点である。”

リベラル派は地域主導が人種 差別と多数派の横暴を、コミュニティが偏見と不寛容の温床になることを問う。道徳と政治が結び付くことの危険は宗教右派の台頭によって説明する。保守派と リベラル派の権力の振り子のなかで市民的価値観についてはリベラル派が入り込みにくい領域である。そしてそれはリベラル派がコミュニティについて語ると き、それは国家共同体について語ることが普通であることに現れている。

 日本に視点を移そう。過剰流動性などの理由で(リ ベラル)も(保守)も同様に中間的コミュニティを持たない日本においては、家族、国家、道徳観等その市民的価値観が長年にわたり放置されてきた。経済成長 によってその視点は反らされた部分もある。
中 間的コミュニティがなく、国家と個人の距離感が存在しないなかで道徳観、善き生とは何かという領域に踏み込ん だのが自民党の憲法草案であるわけだが、それが市民的価値観に対して訴えることを志向するものであるといえる。そしてその道徳的根拠となるものに、明治期 の道徳観を持ち出し、その成文的根拠に大日本帝国憲法を立てているようである。しかし建国に際して、市民的な運動の高まりからこの国が成立したのではな い。国家神道が統治のための方便として成立した過程は省くとして、現代でこのような道徳観は、ネイキッドな形で出現した。他方リベラル派の道徳観は、示さ れることはなく、例外的に国家共同体としてのモラルは9条に集約される戦争放棄が一手に引き受けているが、それが有名無実化していく過程を国民はつぶさに 見ている。
いうなれば明治憲法は現行憲法へのアンチテーゼとして現在表れている。

共 同体としてのモラルを(リベラル派)が9条以外に提示できていない状況が打破されない限り、それが市民的価値観に訴えかけることはないように思われる。 (保守派)は現代のモラル低下を現行憲法における家族や近隣住民、信仰や愛国心といった価値観を喚起しないことに対して苛立っているように思えるからだ。 そのことが端的に、憲法草案において家族の在り方について言及することなどに表れている。
問題は、憲法が国家共同体の道徳的価値観に関する覚書であるとする誤解にもあるがそれはさておき、道徳観、「公共」という概念が喪失されているからこそ起こる問題が、国家と個人の距離感の喪失、そして個人の国家への市民的価値観の要求である。

(保守派)は大日本帝国憲法を、(リベラル派)は日本国憲法を通して、アメリカ合衆国憲法における前文、憲法制定の目的である「われらとわれらの子孫のうえに自由のもたらす恵沢を確保すること」のような、国家的信念を投影しようとしているように見受けられる。

よっ て、現行憲法に違反するからという理由で現在の(保守派)の為そうとしていることを批判するのは、それが正しいかどうかは別にして、心情的に共感を得られ ることはない。現代社会で道徳的価値観を喪失している中で、(リベラル派)はどのような道徳的価値観も提示しなかったことへの(保守派)によるアンチテー ゼが、憲法という焦点に集約されているのであるように見受けられる。
中間的コミュニティを破壊しながら経済成長してきた日本社会に おいては、(保守派)が脆弱であるのが現状である。中間的コミュニティがないまま、道徳的価値観を国家共同体的のなかでときの政府に求める点が病理の深さ を物語っているが、(リベラル派)がそうした市民からの支持を得るために、市民的道徳的価値観を提示すること以外には、市民的動員を望むべくもないよう だ。