2014年3月6日木曜日

超越神に関する覚書


PC遠隔操作事件の被疑者である片山氏の保釈が決まってほっとしている。
この事件がなにを意味するのか、これは技術の進歩による犯罪の複雑化や警察権力の横暴だけを表すものだろうか。

人間が、自分がなぜ存在するのかという問いについて考えることは現代ではそれほど重要ではなくなってきているとわたしが感じるのはあながち間違いではないはずだ。
それには、いくつかの理由があるだろうが、かくありたい、と考える人間と現実の社会とのあいだに存在する矛盾。この矛盾の大きさに依る絶望は、科学や技術の進歩、経済の発展によってはなんら解決されなかった。
むしろ権力の集中と拡大や、技術の進歩と、うけとる情報量の増加によってもたらされたものは不正と「正直者が馬鹿をみる」という教訓であるように思える。
そうした世界に生きる者としての自分がそれでもなお、「生の本来的意味」を求めるということに価値を見出すようになるために、若い時分、苦労しながらもドストエーフスキーを読んだということは大きかったように思う。
「カラマーゾフの兄弟」や「罪と罰」は俗世における欲望や不正や不条理が登場人物に対して容赦なくふりかかる。犯罪、違法行為、俗世の葛藤、そして苦悩のはてに登場人物たちは、俗世に生きる平凡なひととして、「生の本来的意味」を考えることになる。

そのとき信仰の道、つまりは超越的存在としての神の存在を信じることによる救済もありうる。
超越神を信じるということについて、いままで理解できなかったのだけれど、それが存在するとひとつの疑いもなく信じ る、という場合もあるだろうが、そうではなく、現時点、あるいは未来においても判らない、けれど信じることにする、信じようと思う、信じている、そういう ことが「信じる」ということではないだろうかと思うようになった。
人間ごときが正しいと思ってしたことがはたして本当に正しいかどうかなど、わからない、ということだ。

世界が苦悩に満ち満ちているという紛れもない事実にもかかわらず、こと日本において「生の本来的意味」がまるで存在 しないかのように過剰に捨て置かれることと、超越神をもたないということは関係があるのではないだろうかと考えている。無論世界中が少しずつ、均質化して いるなかで日本だけがその根源的問いを捨てているわけではない。しかしとりわけ深刻であると考えるに足るニヒリズムの蔓延は、見てのとおりだ。
その上で、とりあえずはなにかを意志すること―自分にとっては音楽をやることをあらたに選択したのだ。

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